新しい年を迎え、新年の抱負を胸に張り切った気持ちでいる人もいれば、入学試験を間近に控えて緊張の度合を増している学生諸君もいることでしょう。でも、決して忘れてはいけないのは、大切なことは自分のベストを尽くすことで、結果を残すことではないということです。自分が夢に描いている目標を達成できない人もいるかも知れませんが、よく言われるように、「命まで取られるわけではない」のですから、常に前向きに考えて行きましょう。
「他人のことだからそういう気楽なことが言えるのでは?」と思う人もいるかも知れませんが、そんなことはありません。僕も教員時代にたくさんの挫折感を味わいましたし、去年の暮れなどは、社会保険のもらえる常勤講師(契約社員)を募集している別の大手英会話学校に応募して、難しい1次試験にパスしながら、実技と面接の2次試験には落ちてしまいました。実技では決して他の応募者に劣るはずはないのですが、やはり47歳という年齢と経験の豊富さが邪魔をしたのでしょう。つまり、その年齢と経験に見合った月給を一人の人間に支払うよりも、未来のある若者たち二人に半分ずつの月給を出す方がいいと判断されたのでしょう。仕方のないことです。自分がどれだけ立派な資格を持っていても、相手が求める人物像と一致しなければ、社会からは拒否されてしまいます。
でも、こうも言うではありませんか。「捨てる神あれば拾う神あり」と。実際、時間講師という立場ではありますが、ECC外語学院と国際外語センターは僕を講師として認めてくれたわけですし、去年の入社試験の残念な結果も、「お前はもっとECCやKGCのために頑張らなければならないのだぞ」と神様に言われたということなのかも知れません。そういう風に前向きに考えれば、ショックなはずの結果も、素直に受け入れることができるのです。
僕も若い頃は比較的悲観的な人間でした。ものごとの結果を悪い方に悪い方に考えがちで、そのために臆病になったり、落ち込んだりを繰り返していた気がします。結果の良し悪しにこだわらずに、物事に積極的に挑戦できるようになったのは、40歳を過ぎてからではないでしょうか。
皆さんは、僕に比べたらまだまだはるかに若いわけですね。ということは、それだけチャンスもたくさんあるということです。物事の結果が自分の人生にどんな意味を持っているかは、人生を終えるときにしかわからないのではないでしょうか。そういう風に考えれば、自分が挑戦した結果がたとえどんな形で表れたにせよ、それはきっと自分の未来に何らかの意味を持っているのだと、前向きにとらえればいいのです。「全ての道はローマに通ず」という英語の諺が示すとおり、自分の夢を叶えるための方法はいくつもあるものです(諺自体の本当の意味はローマが全ての中心だという単純なものだったのだとは思いますが)。一つの結果にだけこだわらずに、常に臨機応変な対応ができるようになることが一番賢いことだとは思いませんか?
今年の1月15日には(今から2週間後ですが)僕は3回目のTOEICを受験します。990点満点の試験で950点以上を目標にして頑張っているのですが、そうそう簡単に達成できるとも思えません。でも、もしだめだったら4回目に挑戦すればいい。英会話学校の講師だから結果が悪かったら格好がつかないのは確かですが、そんな消極的なことを言っていないで、常に自分挑戦する気持ちを失わないようにすることが、今の自分には一番大切なことなのではないかと考えているのです。
50歳を間近にしたおじさんでさえ、こんなに前向きな気持ちで自分の新しい人生を切り開こうと頑張ることができるのですから、若い皆さんには不可能はないはず。失敗を恐れずに、常に前向きに楽観的に歩みを進めようではありませんか。
私がH君と出会ったのは2005年の11月のことでした。H君は中学3年生で高校受験を控えていましたが、特に英語が苦手で、長い間大手進学塾の個人授業を受けていたのですが、塾の講師も一定せず、なかなか効果があがらないでおりました。たまたまH君のお父さんが私の親類だったので、英会話学校の講師を務めている私に白羽の矢が立ったというわけなのです。
確かに最初に出会った頃のH君は英語アレルギーでした。でも、多くの場合にそうであるように、H君もまた英語が嫌いであるが故に、英語の文字を見て自分で声に出して発音するという習慣が全くなかったのです。言葉は全て音が元になっていますから、きちんと発音できなければいつまでたってもその言葉が理解できるようになるはずはありません。そこで、H君にはあまり厚くない基礎的な問題集を用意して、問題を解く前にいろいろと大切なポイントを解説し、問題を解いた後には、必ず最低2回ずつは声に出して発音練習をするようにしたのです。数回の授業でH君の英語力に大きな変化が見られました。まずは、それまでは常に0点だったリスニングの点数が突然上がったのです。それは、自分が大きな声で英語を発音するようになったために、その自分の声を耳がキャッチすることでリスニングの力が自然とついたためでした。H君の場合はリスニングは白紙に近かったので、きっかけを与えられて伸びるのも速かったということになります。乾いたスポンジが急速に水を吸い上げるのと同じです。
H君は英語の面白さにとつぜん目覚めて、私と週1回の授業がない間は自分で問題集に取り組む習慣を身に付けました。みるみるうちに英語の力がついていった彼は、他の教科の勉強にも突如として目覚めたようでした。それはそれまで全くダメだと思っていた英語があっという間に自分の手の届く教科になった大きな自信が、彼に与えた力だったのだと思います。
3年生の成績は11月末に出ますから、私がH君の家庭教師を始めてからたった1ヶ月で期末試験がやってきたのですが、H君の成績は一挙に上がりました。英語ももう少しで一段階上がるところまで伸びて、中学校の英語の先生を驚かせたようです。そして本番の受験がもう間近に迫った彼は、今度は数学の二次関数に目覚めて、何かにとりつかれたように問題集に取り組んでいます。英語はもう完璧に近い状態までたどり着きました。国語はもともと得意だったので、彼の入試の結果(国語・数学・英語の3教科型)は、恐らくは高校の先生たちをびっくりさせることでしょう。彼が受験する高校で彼ほどの高得点を取る受験生は恐らくはいないでしょうから。
人間は自信がつくと信じられないほど大きな力を発揮するということは言葉ではよく理解しておりましたが、実際彼の変貌ぶりを間近で見て、私は「自信」の大切さを改めて実感した次第です。
NEETという言葉が立法・行政・マスメディアを中心に話題となっています。NEETとはNot in Employment, Education or Trainingの略で、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。現在、日本にはNEETに分類される若者の数は68万人と言われています。労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子先生はニートを四つ類型化しています。
Tヤンキー型
反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ
Uひきこもり型
社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ
V立ちすくみ型
就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ
Wつまずき型
いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ
自民党の杉浦議員が「勝ち組」も「負け組」もない。正社員もニートも同じ人間だと、いくら国会の場で吠えたところで、またいくら小泉首相がそれに同意したところで、ニートはニートでしかないのです。今、世界の各国はニート対策をどうするか一生懸命思案していますが、どうしようもない理由でフルタイムの仕事に就けなかった人と、自分がだらしなくて仕事に就けなかった人を、どうやって区別するかという問題も出てきますから、国の対策に期待するのはやめた方がいいでしょう。基本的に、国民が血税をニートのために使うことに賛成するわけはないのです。
若いうちは、健康にも恵まれているでしょうし、「働こうと思えばいつでも働ける」という気持ちになるかも知れません。しかし、年齢を重ねれば重ねるほど、会社側は正社員として雇うことをためらうようになります。なぜなら、日本社会は未だに「年功序列制度」が根強く残っていますから、年齢の高い人を正社員として雇えばそれなりの年齢給を出さなければならなくなります。それならば、高校や大学を出たばかりの初々しい若者を二人雇った方がいいに決まっています。若いと言うことは社会を知らないということでもあり、会社にとってはその会社の色に染めやすいわけです。年齢が高くなれば社会の仕組みもよく知っていますから、会社側の矛盾した要求に素直に首を縦に振らなくなります。ところが、一旦正社員として雇ってしまえば、それ相当の理由がない限りは首にすることはできないのです。
あなたに、もし世間をフリーで渡っていけるだけの高い才能があれば別ですよ。例えばフリーのジャーナリストやフリーのイラストレーターなど。私のようにフリーの英会話講師もそうです。でも、私の場合は英検1級を持っていてTOEICもほぼ満点に近い970点をとっていても、それだけではとても武器にはならないでしょう。今年は国連英検の特A級に絶対に合格して、更にTOEFLにも挑戦してみたいと思いますが、それでもどのくらいの武器になることやら。なぜなら、私は一般の四年制大学を出た「学士」でしかないわけで、世の中には更に大学院で箔をつけた「修士」や「博士」がいるわけです。ですから、私の場合は本当に強力な武器を身に付けたいと思ったら、アメリカに最低2年間は留学して大学院で修士課程を修了してくる必要があるでしょう。博士課程まではいらないにしても、英会話講師の世界もそこまで厳しいのです。そして運よく名前が売れてしまえば、後はあちこちからお呼びがかかるようになるでしょうが、その頃には私は一般的に言う「定年退職」の年齢に近づいているでしょう。自分にとって何が一番得策かをこれからは十分に見極めなければなりません。
日本の世の中は徐々に実力主義になってきているとは言っても、国会では「極端な実力主義で貧富の差が拡大するのは問題ではないか」という議論が起こりつつあります。本当に能力主義を採用したら首になる公務員は莫大な数に上るでしょう。そういうことが受け入れられる土壌は、日本には基本的に存在しないのです。ですから、喩え実力が伴っていなくても肩書きを持っている方がいいに決まっている。建築の才能があっても「1級建築士」の資格があるかないかは大違いです。学校の先生をしていれば、「きっと頭がいい人なのだろう」と思われるのが日本の社会です。でも、社会構造を変えようとしたら大変なエネルギーが必要ですし、一人の人間にできることではありません。それは時代に任せた方がいいでしょう。
だとしたら、あなたはそんな日本社会の中で生きる知恵を身に付けなければなりません。ニートと呼ばれるようになって国から施しを受けるのを待ちたいですか?「一人前の人間ではない」という烙印を押されることほど情けないことはないのです。もちろん、それは例えば身体障害者が健常者と同じような仕事ができないということとは全く違います。その人が能力の全てをかけて仕事をしているときには、その人は「一人前の社会人」だと見なされるでしょう。でも、「社会に甘えている」という烙印は非常に辛い。だから、あなたは決してニートなどという外国から輸入された言葉で区分されてはいけません。
若さは失敗を恐れずに挑戦することをも意味します。人間は年を取るとリスクを冒すのが怖くなるものです。ところが若いうちはどんなことにでも果敢に挑戦できる。人間の能力は測り知れませんから、若いうちに呑気に遊んでいないで、自分の能力はしっかりと開発して、取れる限りの資格は取っておくことが大切です。食べていける程度に稼げればいいのだとしても、それすら難しいのが社会の現実です。年を取ったなと思ってから後悔しないように、できることは何でも一生懸命やっておきましょう。
私はよく学校の教員の向上心の欠如やプロとしての知識の不足、教師としての仕事に欠ける熱に野欠如を指摘しますが、それは「途中で辞めたやつにそんなことを言われてたまるか」と反発してもらいたい意味も込められていますし、また決して自分を100%OKだと肯定的に捉えているわけでもありません。人間は決して完璧にはなれませんから、常に自己研鑽に励まなければならないのです。
よく、他人の批判は徹底的にするけれど、自分には不思議なくらい甘い人がいます。いわゆる、「自分のことは棚に上げる」タイプの人間です。そういう人たちはいつか必ず大きなツケを払うときが来るでしょう。私の大学時代の先輩は常に自分には厳しい目を向ける人でしたが、彼はその姿勢を50歳を超えた今になっても貫いています。九州男児の血の熱さですね。
例えば私の場合は英検1級でTOEICの初挑戦が880点。英検1級などは英会話学校の講師としてはまず最低基準ですからちっとも自慢になりませんし、TOEICの880点は一般人だったら大喜びする点数ですが、英会話講師としては全くお話にならない点数です。つまり、中学校の英語の先生達からすればはるかに段違いの英語力を持っている私も、英会話学校の講師としてはまだまだ未熟者ということになるのです。ECCの研修で担当の関東代表スタッフに厳しく言い渡されました。「あなた達はバイリンガル講師としてECCが売り出して行くのだから、英語に関して知らないことがあったらダメ。授業中に電子辞書で単語を調べるようなふざけた真似だけはしないようにね」と。私の場合は、逆に講師でもわからないことは辞書で確認するということがかえっていい効果を生徒さん達にもたらすという考えから、少しでも不安なスペルはその場でチェックするようにしていますが、いずれはこの段階から抜け出さなければなりません。
時事英語の質問をされてもすぐに答えられるように、英字新聞には必ず目を通しておかなければいけませんし、文学的表現にも精通していなければなりません。「歩く辞書」である必要があるのです。それに、映画の字幕で有名な戸田奈津子さんのような方から見れば、そんな英会話学校の講師さえまだまだ未熟な存在でしかないでしょう。
自分より上には上がいるということを十分に自覚することはとても大切です。常に謙虚な姿勢で、自分の足下を厳しく確かめながら前進を続けましょう。
また、自分がある程度の才能に恵まれていると、それがついつい自分の努力によってもたらされたものだと錯覚しがちですが、人間の才能は親から受け継いだ財産でもあり、また周囲の多くの人たちに恵まれて育った財産でもあるわけです。「自分はいい環境に恵まれただけなのだ」と謙虚に考えることは絶対に必要です。ですから、めったやたらに自分より才能の劣る人々を見下してはいけません。
また、自分に甘い人は、例えば「本を読む時間がない」とか「勉強する時間がない」などと簡単に愚痴をこぼしてしまいますが、実際に自分の生活を客観的に分析してみると、どこかでソファーにくつろぎながらぼうっとテレビを見ている自分がいることに気づきます。時間は与えられるものではなくて工夫して作るものだという基本的な鉄則が理解できていないようでは、まだまだ未熟者です。本当に読書好きな人は、寝る前の10分間を有効活用しています。英語の勉強も、どこかで5分でもいいから毎日確保する努力をするだけで大きな効果を得ることができるのです。
でも、人間は常に順風満帆の状態でいられるとは限りませんから、元気なときは「今日できることは明日に延ばすな」とか「今の1分をおろそかにする者は、次の1時間も無駄にする」などと厳しい発想で自分を見つめることは大切です。でも調子が悪いときは「明日は逃げはしない」などと少し呑気に構えることも必要です。人間は常に緊張を保つことは不可能ですから、「休息も勉強のうち」という余裕を持った考え方も必要です。いつもいつもそれではいけませんけれどね。
ここに書いたことは若い人たちにばかり当てはまることではありません。もしかしたら、社会人になった人たちの方が、こういう考え方を身に付ける必要があるかも知れませんね。
私も中学生の時には塾に通っていました。でも、その塾の塾長は私が中1で英語が全然わからなくて塾に頼ろうとしたとき、すぐに入塾を許可してはくれませんでした。翌日までに100個の英単語を覚えて来てその試験にパスしたら入塾を許可すると言うのです。私は初めて必死で英単語の練習をしたのを覚えています。その時点で、私の運命は決まったのです。そのN塾長は私が他人頼みの甘ったれた中学生であることを見抜いて、最初に私の人生を方向付けてくれたのです。
N先生はまさにスパルタ教育でした。私たちの甘えは一切許しません。もちろん、学校の先生の悪口など言おうものなら大変です。竹の棒で手を叩かれました。でも私たちの誰もそのことに対して文句を言う者はいませんでしたし、親たちもN先生の指導方針を全面的に支持していました。実はN先生は私立高校の数学の先生だったのですが、学校に嫌気がさして塾を開いた先生でした。英語は英和辞典を一冊暗記したとおっしゃっていました。本当かも知れません。
私は1ヶ月もしないうちに英語の基礎を鍛え直され、1学期に3だった成績は2学期で一気に5になり、中学校3年間その成績が変わることはありませんでした。それはそうでしょう。私たちは超中学レベルの英語を勉強していたのです。その頃には気づいていませんでしたが。N先生は教科書の本文を私たちに暗唱させてその試験をしました。それがそれ以後の私の学習方法の中心になったのです。
でも、私は感じていました。いつまでもN先生に頼っていてはいけないことを。そして無事希望の高校に進学した私は、不安をぬぐい去ってN先生の塾を辞め、全ての勉強を自分の力でやるようにしました。英語の予習は完璧で、次の日の授業で高校の先生が言うことはすでに全て知っているという状態でした。N先生から教わったとおり、私は教科書の本文から何から、とにかく目にする英文は全て暗唱しました。その方法は未だに変わっておりません。ですから、私は留学しなくてもネイティブ並みの英語力がついたのだと思います。私の場合はただぺらぺらしゃべれるというレベルではありません。英語に関する余分な知識もものすごく豊富です。それも、全てはN先生との出会いが与えてくれたものでした。一時は数学がちんぷんかんぷんになってN先生のところをもう一度訪れたこともありましたが、そのときもN先生は特別な数学の先生を紹介してくれて、その先生の下で短期間特訓を受けて後は自分の学習に戻りました。高1の数学でつまづいた人間が高2と高3の数学で高得点をとるようになるというのは実際には不可能に近いことだと思いますが、N先生のアドバイスのおかげで私はその不可能を実現することができました。
最近の学生達を見ると、やはり他人頼みな姿勢がより一層強まっているようです。塾や会話学校に通うことは別に問題ないと思いますが、大切なのはいつまでも「受け身」な姿勢でいてはいけないということなのです。結局は他人が自分の力を伸ばしてくれることを期待するのでなく、他人の助けを借りて自分自身の力で伸びることができる能力を開発するのです。塾や会話学校はそのための刺激を受ける場所でなければなりません。通っていれば力がつくなどという幻想は、間違っても抱かないことですね。自分の力で何とかしようとしない人は、結局はいつまでたっても実力がつかないのです。
本屋さんを覗いてみて下さい。これだけ十分な教材が安価で入手できる国が世界のどこにあるでしょう。勉強する気にさえなれば、いくらでもできるのです。それなのにその豊富な教材を活かせないのは、日本人が他人頼みの甘ったれた体質から抜け出しきれていないことが原因でしょう。どうしたら耳を鍛えることができるのだろうと思ったら、NHKのラジオ会話講座のテキストを手にとってみればいいのです。1ヶ月にたった350円であとはラジオのチャンネルを合わせるだけ。こんな簡単な教材で、ものすごい英語力がつくのを皆さんはご存知ですか。恐らく、ほとんどの人は番組を聴いて終わりでしょう。だからダメなのです。テキストの会話は番組を録音しておいて、ネイティブとそっくりに言えるようになるまで暗唱して徹底的に練習するのです。それでこそ初めて教材を十分に使いこなしていると言えるでしょう。私は大学時代にNHKのラジオ英語会話を徹底的にやりました。それで十分に話せるようになったと思っています。350円のテキストを35,000円の価値に高められるかどうかはあなた次第なのですよ。そして、それができない人はどんな学校や教材を頼っても、結局は英会話を日本でマスターすることは不可能でしょう。
自分の目標がはっきりしているのなら、それに向かって自分にできる最大限のできるだけ安価な方法を考えることです。人間は自分で考えることができるから他の動物と区別されるのです。でも、最近の学生達を見ていると、我が家の愛犬の龍馬の方がよほど頭を使っていると思えてきます。自分が苦手な分野があるのなら、その分野の基本的な本をたくさん読んでみればいいではありませんか。そうすれば必ず努力は実るものです。それが本当の学習能力であり頭の良さだと思います。教えられたことを全て完璧に覚えることができることを「頭がいい」と社会では呼んでいますが、私からすればそんな能力はちっとも自慢にはならないと思います。自分なりの工夫ができる人が頭がいい人なのです。
ちょっと厳しい言葉だったかも知れませんが、あなたもそろそろ他人頼みの自分から卒業してみませんか?文科省が言う「生きる力」とは、そのような力のことを言っているのですよ。
日本にはいい格言がたくさんあります。このタイトルにした「努力は天才に勝る」というのは恐らくアメリカの発明家トマス・エジソン氏の言葉から来たものだと思いますが、純日本産の格言だと「石の上にも三年」とか「点滴石を穿つ(うがつ)」(ぽたぽたと一滴ずつ落ちる水滴が長い時間をかけて硬い石を砕いていくという意味)などですね。
私が教えていた生徒たちは、私が神奈川県立湘南高校の出身であると知ると、目を白黒させて驚きました。私が在学した頃の湘南高校は東大に80人以上を送り込む全国一位の公立進学校でしたから、名前を聞いて驚くのも当然かも知れません。でも、私は決して東大に行くような秀才ではありませんでしたから、いつも学校の授業についていくのに必死でした。どんなに頑張っても学年で真ん中くらいに位置するのが精一杯。ただ、私が他人より秀でていた点があるとすれば、それは物事にねばり強く取り組むことだったかも知れません。数学の問題で解けないものがあると、絶対に解答や解説を見ずに、3時間でも4時間でも自分で問題とにらめっこをしていたこともあります。そして挙げ句の果ては、夢の中で問題を解いたこともあるんです。そんな不器用な自分でした。今思えば、そういう私はきっと研究者に向いていたのだろうと思います。企業に就職して前線で活躍するタイプではなかったでしょう。どんな事に関しても、自分が納得するまでは徹底的に勉強するタイプでしたから、学校の教員にも向いていたかも知れません。
それでも、私は一丁前に東大を目指していました。そして、同時に外国語教育の頂点に立つ東京外語大学も目指していました。でも、浪人してまで挑んだ第一希望は私には手が届きませんでした。私は広い範囲の強化を器用にこなすタイプではありませんでしたから、国立大学には向かなかったのでしょう。劣等感に包み込まれた高校時代だったのです。
あるとき、一生懸命に自分で作った英語のノートをクラスの友達が借りていきました。彼は一晩で全てを暗記してしまったのでしょう。英語の成績はもちろん私より上でした。頭の出来が違うのですから仕方ありません。彼は現役で東大に合格していきました。でも、考えてみてください。英語の専門家になったのは、鈍くさい私の方なのです。
ねばり強い取り組みは必ず大きな力になることは間違いありませんが、そういう努力が報われるようになるまでには長い時間が必要です。高校受験や大学受験では短時間で解答を導き出す能力が必要とされますから、深く何かを分析することが好きなタイプの生徒には、あまり有利とは言えないでしょう。もし、高校入試や大学入試にに面接や論文が加われば、合否の結果はかなり違ってくるのではないでしょうか。
「俺は頭が悪いから」とか「私は馬鹿だから」などと自分のことを半ば嘲笑的に言う人がよくいますが、どういう人間が本当に頭が良くて、どういう人間が頭が悪いのかなど、誰にも決められないとは思いませんか?神様が自分に与えてくれている能力がどの程度のものなのかは、ねばり強く何かに挑戦して行く中で徐々に見えてくるものだと思うのです。テストの結果が全てではありませんし、私はどういう人が頭がいい人かと問われれば、「他人とは違う工夫をねばり強くできる人」と答えると思います。他人の真似をして、例えば入試対策本などを丸暗記できる記憶力の秀でた人は、頭がいいという基準では何とも判断できないと思うのです。
コンピューターの頭脳はメモリーです。やはり記憶力です。多くのデータを手際よく記憶して、複雑ないくつもの作業を同時にてきぱきこなしていく能力がコンピューターには求められているのです。メモリーの王者は何と言っても「ペンティアム4」(デスクトップ用)か「ペンティアムM」(ラップトップ用)でしょう。でも市販のコンピューターで安価なものには、ペンティアム以外のプロセッサーが使用されています。さて、それでは最高級のメモリー機能を搭載したコンピューターがどのくらい仕事をしてくれるかということになると、それは、実はそのPCを使う人間によって決まるわけです。使いこなせるかどうかという問題です。ねばり強く作業に取り組む人は恐らく「セルロン」や「アスロン」などのプロセッサーを搭載したコンピューターでもかなり優れた仕事をさせることができるでしょう。でも、「自分はコンピューターは苦手だ」とすぐ投げ出してしまう人には「ペンティアム」のプロセッサーはまさに「猫に小判」です。つまり、記憶力がいいことは大変な武器になりますが、それをどのように利用するかで頭の良さが決まってくるということなのです。
だいたい、日本人の学生は覚えなくてもいいことをたくさん覚えます。日本史の人物名や世界史の年号などはその最たる例です。そういうものは本や年表を見れば書いてあるのですから、無理矢理覚える必要はないのです。それよりも、誰が何をしたことが歴史上どういう意味を持っていたかなどを深く考える力の方がよほど重要です。そして、そのように歴史を学習していくと、名前や年号は自然と覚えてしまうものです。中学校の数学で3つの合同条件を覚えるのが早い人は頭がいいと言われます。でも、なぜその条件がそろうと合同になるのか自分で納得がいくように考える生徒はどのくらいいるでしょうか。数学の頭の良さは公式の暗記ではなく、「なぜ」に対して自分なりの結論を導き出せる能力があるかないかで決まります。英語についても、有名大学の英語の試験に余裕でパスする人たちが自由に英語を操れるかというと、それは全く別の問題だということに気づきます。英語を自由に操れるようになるためには、長い時間をかけた訓練が必要だからです。
自分の能力に自信をなくしている人は、ぜひ忘れないでください。ねばり強い努力に勝る天才はないのです。こつこつ取り組んでいれば、やがては大きな花が咲くときが来ます。それを待てる人間であれば、あなたは決して頭が悪くなどありません。
インターネットの普及は、「自殺サイト」とか「殺人請負サイト」「モデルガン改造サイト」など、信じがたいようなサイトを生み出してしまいました。特に、「自殺サイト」で相談をしあって、車の中に練炭の火鉢を持ち込み、みんなで一酸化炭素中毒で自殺しようなどというアイデアを提供するなど、まさにナンセンスです。自殺の方法をあれこれ考える余裕があるということは、まだまだ生きていくエネルギーがあるということなのです。本当に追いつめられて生きていけない状況にある人は、自殺の手段をあれこれ選んだり、一緒に死んでくれる人を探したりする知恵などは絶対に働きません。
動物は自らの命は絶たないように、自己防衛本能がインプットされています。それを犯して自らの命を絶つと言うことは、喩えそれがどんな手段であろうとも、大変な度胸の要ることです。そんな度胸があるくらいなら、頑張って生きていくことの方がはるかに楽でしょう。
若い時代には、ちょっとした失敗やあるいは自分の持っている小さな欠点が、まるで致命的であるかのごとく大きく見えるものです。「もう取り返しがつかない」そう考えることが度々あったとしても少しも不思議ではありません。しかし、人生の年輪を重ねた人間から見ると、そういう悩みも非常にちっぽけなものでしかない場合が多いものです。
「まあ、どうにかなるさ」と楽観的に構えることも人生の一つの知恵です。実際、物事は考えているほどうまくもいかないし、考えているほど最悪にもならないものなのです。「案ずるより産むが易し」という諺がありますが、あれこれ考えているよりはとりあえず実行して見た方がいいのは確かです。
私も高校生の頃はどちらかというと「完璧主義」でした。何でも完璧でなければいやだということではなく、ちょっとでも欠点があると、人生は終わりだと思えたのです。例えば、高校1年生の時に数学や生物の点数が極端に落ち込んでしまって、自分の人生はこれでもう終わりだと思いました。これではとても東大には入れないし、もしかしたら行ける大学もないかも知れないと真剣に考えたのです。
しかし、人間の学力というのは中学生や高校生の段階で判断することは絶対にできません。「大器晩成」という言葉もあるように、本当の能力が晩年に開花する人も少なくはないのです。勉強は苦手だと思いこんでいた人が、ある日突然向学心に燃えて30歳を過ぎてから新しい勉強を始めると言うことはよくあることです。私は中学時代、公民の政治経済が苦手でしたが、大学生になって自分が政治経済に非常に関心が強いことに気づきました。それでも、国の役割とか三権分立など政治の仕組みについてはとても覚えられないと思いこんでいたのですが、教員を辞めて臨海セレクトで中3の公民の集団授業を担当するようになって、もう一度中学校の教科書を勉強してみたら、何と三度の飯よりも面白いではありませんか。私は1週間もしないうちに公民のプロになってしまいました。今では日本語でも英語でも政治経済は自分の得意分野です。大嫌いだった日本史も、大学時代に今は亡き司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」全8巻を読んだときに、雷に打たれたかのように電撃的に得意な分野に変わっていきました。高校生の時に悩んでいた生物にしても、私は基本的に自然科学が好きなようで、英語では得意分野になっています。
若い頃に自分の欠点だと思いこんでいたことも、年齢を重ねて改めて考えてみると自分の長所になったり、今でも年齢を重ねれば重ねるほど、人間の能力には限界はないのだと言うことを思い知らされる毎日です。ですから、子供達が勉強で悩んでいるのを見ると、本当に何とか手助けをしてあげたくなってしまいます。私が教え込むのではなくて、自分から学ぶ自信をつける手伝いをしてあげるだけでいいのです。ちょっとでも自信がつくと、勉強はあっという間に楽しい時間に変わります。
人生には「もうダメだ」と思う瞬間が何度も訪れるでしょう。実際、教師になってからの私も自分に背負わされた大きな責任から何度も逃げることを考えました。しかし、物事というものはねばり強く構えていれば何とかなってしまうものなのです。昔の私は、学年主任などの人をまとめる仕事は絶対にできないと自分で決めつけていました。ところが40歳を過ぎた私はいつしかそういう責任ある仕事をしてみたいを思うようになっていたのです。今では会話学校を開いて経営に専念してみたいと思うようにさえなりました。人はどこでどう変わるかわからないものです。そして、自分の中に秘められた才能は、しかるべきチャンスと巡り会うことでいくらでも開花するものなのです。
だから若い皆さんにはぜひ楽観主義者になってもらいたいと思います。「まあ、何とかなるかな」と開き直って人生の流れに身を任せてみるのも大切なことです。「運命は自分で切り開くものだ」と張り切ることも大切ですが、逆に「運命には逆らえないからな」と開き直ることも同じように大切です。そして、どちらか一つの考え方が正しいということもないのです。両方とも真実だからです。
皆さん、いくら頑張って名誉や地位や財産を手に入れても、思わぬ自然災害で奈落の底に突き落とされることだってあるのですよ。人生は何が起きるかわからないから、あきらめてはいけないのです。
今の日本は不景気があまりにも長引きすぎてしまって、人々の心にはゆとりというものがありません。大人ばかりでなく、文部科学省の新しい教育改革の試みの結果、子供たちの学校生活にまでゆとりはなくなってしまいました。その結果、全ての人間にストレスが異常に大きくのしかかる状況が生まれてしまったのです。ここ1週間で、高校生の授業中の爆弾事件や刃傷沙汰が大きくマスコミに取り上げられました。こういう事件の背景には、普段から自分の気持ちや主張を上手にできずに、ストレスをため込んでしまう日本人の伝統的な国民性も原因の一つとして存在することでしょう。ましてや、コンピューターゲームと向き合うことで幼少時代を過ごす現代っ子たちは、他人と上手にコミュニケーションをかわす手段を知りません。ストレスは一つのエネルギーの形態ですから、たまったエネルギーはいつかはそのはけ口を見つける必要があります。それが、ある日突然爆発するととんでもない大騒ぎになるわけです。今回の高校生の事件もその例に過ぎないでしょう。
ストレスの発散方法は、落ち着いて考えればいろいろあるものです。例えば、家の中に水槽を置いてその中に熱帯魚ではなく水草や枯れ木を設置し、熱帯魚はネオンテトラを数匹放すだけでいいのです。すると、蛍光管に照らし出される水中の世界は、実に神秘的で美しく、それを何時間眺めていても決して飽きることがないほどです。そして自然と心も癒されるのです。
アロマテラピーも非常に賢い方法です。私は京都のお香が大好きなので、よく居間でお香をたいていましたが、最近ではエッセンシャルオイルの開発が進んで、あらゆる種類の花の香りを楽しむことができるようになりました。アロマ発生装置も新しく開発され、お湯ではなく水の状態で細かな霧状の水煙を発生させることができるのです。もちろん、使う水は蒸留水でなければならないのですが、そこにエッセンシャルオイルを数滴垂らすだけで、癒しの効果が得られます。エッセンシャルオイルは湯舟の中に垂らしても効果が上がりますね。ただし、あまり心地よい香をたてすぎると、湯舟の中で眠ってしまう危険性があるので注意しなければ行けません。
最近ではマイナスイオン発生装置付のヒーターや扇風機、空気清浄機まで登場しています。これは本当に大量のマイナスイオンが発生しているとすれば、森林浴と同じ効果を持つわけですから、ストレスを癒すのには非常に効果的です。しかも、マイナスイオンは部屋の悪臭まで退治してくれますから、一石二鳥ですね。
部屋の環境を整えることもストレスの発散に大きく貢献します。ものが乱雑な状態にあると、人間は心まで雑になってしまいます。ですから整理整頓は非常に大切なことなのです。そして、できれば緑や青系統のものを部屋に置くようにすると気持ちが落ち着きます。なぜなら、それは太古の昔人間がこの地球上に誕生してからずっと自然界でなじんできた色だからです。特に緑色は視力の回復にも役立ちますし、脳がアルファー波を発するきっかけにもなるそうです。
最近ではヒーリングミュージックなども開発されているので、そのようなCDを安価で手に入れてきて、小さな音でBGMとして流しておくのもいいでしょう。サブリミナル効果を利用して深層心理に訴えかけるようなメッセージを音楽の背景に埋め込んだCDもあるのですが、こちらの方は試す価値があるのかどうかは私は専門家ではないので何とも言えません。ただ、人間の深層心理に働きかけるある意味では非常に危険なものなので、偽のメッセージを入れられて洗脳される危険性も秘めていますから、購入する際には必ず信用の於ける会社から入手することをお勧めします。
オウム真理教の事件が発覚したとき、「マインドコントロール」という言葉が流行りました。しかし、「マインドコントロール」は非常に大切なことで、自分自身で自分の心を上手にコントロールするという意味では、誰もが身に付けなければいけない能力でもあるのです。さあ、研究しましょう。
皆さんはどんなときに「恥ずかしい」と感じますか?友達の前でかっこわるいことをしてしまったとき?テストで悪い点をとってしまったとき?授業中に先生の質問に答えられなかったとき?恋を告白して振られてしまったとき?
大人になったとき、何が恥ずかしいかと言って、ものを知らないことほど恥ずかしいことはないのです。今の日本で話題になっていることや、不景気のこと、年金問題や老人介護問題のこと、その他新聞や雑誌などを読んでいればいくらでも情報を得られることを全く知らない人間を、本当の意味で「馬鹿」と呼びます。いくら学校の勉強ができても、自分が生きている社会のことを何も知らないのは本当に恥ずかしいことなのです。
「でも、私は政治や経済の勉強は苦手だから…」そうではないのですよ。学校の中学3年生で習う公民の授業は眠くなってしまう人でも、税金がどんなとことで役に立っているか、またどんなところで無駄に使われているか、消費税はなぜ必要なのか、日本の消費税は世界で最低水準なのになぜ消費税の値上げにみんな反対するのか、国民年金を誰もが毎月13,000円ずつ支払っていったとして、老後に本当にきちんとした保障が得られるのか、たばこやお酒は価格のうちの何パーセントくらいが税金なのか、小泉首相が靖国神社の参拝にこだわるのはなぜなのか、靖国神社の参拝がどうして中国や韓国から大きな批判を浴びるのか、そういう具体的な問題なら中身を知ることは決して難しくはありませんし、それに退屈でもありません。
また、法律的なことに関しては無知な人がほとんどですが、思わず買ってしまった高い商品を解約しタイ時のクーリング・オフ制度の実体や、騙されて架空請求が来たときの対応の仕方、また実際にどんなことをされたときに裁判に持ち込めて、それが民事裁判だった弁護士を雇うのにいくらくらい費用がかかるのか、また地方の条例の中にも、よくよく考えてみると憲法の精神に反しているものもあるかも知れません。日本では日本国憲法が国の最高法規で、その精神に反する条例などは一切作れないことになっています。
友達をいじめることは、憲法で認められた基本的人権を踏みにじる行為になるので、当然人権侵害で訴えられる可能性があります。そのときは莫大な慰謝料を支払わなければならないのです。まだ未成年だから関係ないなどと考えていてはいけません。法律的な責任が負えない年齢の場合には、その保護者が代わって慰謝料を支払う義務を負うのです。いじめを見過ごしてしまった学校や担任の先生も法的な責任を追及されます。きっとそういうことはあまり多くの人は知らないのでしょうね。だからいじめが終わらない。
セクハラは問題になりますが、言葉の暴力はあまり問題になりません。相手の人格を傷つけるような発言はやはり人権侵害になり、法的な処分の対象になります。相手が苦痛を感じれば、苦痛の度合いとその苦痛を感じていた期間に見合っただけの慰謝料を支払わなければならなくなるのです。
ゴミのポイ捨ても、犬の糞の放置も、何もかも法律では罰せられることになっています。さて、それはどの程度の罰が与えられるのでしょう?自分の住んでいる市町村の条例を調べてみれば、罰金や懲役の程度がきちんと具体的に記されているはずです。
コンビニの前で座り込んで何時間もおしゃべりに興じている行為は、お店の人が迷惑だと判断すれば確実に「営業妨害」として罰せられることでしょう。それでも、誰も処分された高校生たちがいないのはそういう法律に関しては、日本人は極めて無知だからなのです。訴訟社会のアメリカなら、マクドナルドのハンバーガーを食べていて太ってしまったからマクドナルドを訴えるなどという事例まで実際に起きています。
一般市民の税金を無駄に使っていた地方公務員がいたとしたら、それは「地方公務員法」という法律によって「一般市民の信頼を著しく裏切る行為」として厳重に罰せられるはずです。ですから、それ相当の処分がなされていないとしたら、それは身内をかばっているということで市民は地方自治体に苦情を申し入れることができます。
どうですか?そういう知識を持っているかどうかで、堂々と胸を張って社会を生き抜いていけるか同意かが決まってしまうのです。何も知らなければ騙されておしまい。知らないことほど恥ずかしいことはないのです。だから、社会の仕組みについては一生懸命に勉強して情報をたくさん集めましょう。
人間というものは実に欲張りなもので、他人が持っているものは何でもよく見えてしまいます。他人が羨ましいと感じているときには、自分の良さを十分に認識していないときだと、有名な作家の加藤諦三さんが本の中で書いております。
でも、まだ若い頃は自分になかなか自信が持てないために、ついつい他人の立派な能力や業績を羨ましく感じ、そのために「自分はダメだなあ」と落ち込んだりするものなのです。でも、他人から見れば自分にも素晴らしい宝がいっぱいあるのに、自分にはその宝が見えません。
今の私は、堂々と自分の英語力をこう評価します。「僕はリスニングが苦手で、映画の台詞もせいぜい50%くらいしか聞き取れません」でも、どうしてそんなマイナス情報を公表できるかと言うと、それは英語を書くことや話す事に関してはたいていの人間よりはるかに優れているという自信があるからです。
人間は自分の長所と短所をきちんと見極めることも大切です。そして、短所はできるだけ改善する努力をしながら、自分の長所はしっかりと売り込めばいいのです。私は読書家ではありませんでしたから、本を読むスピードは完全に人並み以下です。英語の原書もほんの数冊しか読んだことがありません。だから、今は少しずつでも原書を読むようにしています。でも、書くことに関しては誰にも真似できない才能があります。しかも普通の作家の恐らくは数倍の速さで作品を仕上げることができるのです。その場で何かテーマを突然与えられても原稿用紙10枚から20枚程度の文章であれば30分もあれば仕上げてしまうでしょう。これは親からもらった特殊な能力で、他の誰にも真似できないはずです。ただし、文学的な美しい文体などはまだまだ確立されていませんから、プロの作家として食べていくことはできないでしょう。
私には美的なセンスも人並み優れたものがあります。レイアウトの感覚も素晴らしいので、プリント教材などを作ると市販の問題集などより数段優れたものができあがります。自分でもそんなに優れているとは思っていなかったのですが、茅ヶ崎市立西浜中学校の創立50周年記念誌を編集しながら、そういうレイアウトの感性が更に磨かれたような気がします。いつかは、英語のオリジナル問題集ないしは参考書も手がけてみたいと思っています。私の場合は、例文も長文も全てオリジナルで書けるところが優れているのです。決してどこかの文や文章を引用するようなことはありません。
ところが、私は自分のペースを上回るペースで仕事をしすぎて「うつ病」にかかってしまいました。今でも薬は飲み続けています。でもこれも私の人生です。いいところがあれば、必ず悪いところもある。そして私にとっては「うつ病」という社会的にはマイナス評価される病気も、弱い立場の人たちの心を理解する上で大いに役立っているのです。私が非常に正義感の強い教師で、多の教師たちと折り合いがうまくいかなかった理由もそんなところあります。私には離婚歴がありますが、それとても家庭が崩壊する精神的な苦痛を十分に味わういい経験になりました。ですから、私は崩壊家庭の子供たちを見ると、我が子のような感じがしてとことんつきあいたなってしまうのでしょう。
学生時代の私は自分に自信のないとてもか弱い存在でした。でも、今の私は堂々と胸を張って仕事に精出しています。ECCとKGCの看板講師になれるように毎日一生懸命頑張っています。ECCとKGCでたくさんのクラスを担当させてもらえるということは、自分の教師としての力量を高く評価してもらっているという証拠です。私はこの恵まれた環境の中で、精一杯自分の才能に磨きをかけたいのです。そして、そうすることで一人でも多くの生徒さんが英語の学習に自信を持ってくれたなら、私にとってそれ以上嬉しいことはないのですから。
若い皆さんは可能性の宝庫です。47歳の私がまだ自分の可能性にかけようとしているのですから、皆さんには不可能なことなど絶対にないでしょう。ぜひ自分の可能性を信じて、夢を大きく持って、自分を他人と比べないで、ありのままの自分と向き合っていって下さい。
こういう面白い話があります。A先生とB先生の二人の先生のクラスに5人ずつ特別にマークされた生徒を入れるのです。そしてA先生のクラスに入る5人は非常に優秀で、B先生のクラスに入る5人はあまり優秀ではないという話を二人に聞かせます。1年後、マークされた生徒たちは、最初に言い渡されたとおりの生徒になっていると言う話です。何が面白いかわかりますか?つまり、最初の10人の生徒に関する説明はでたらめで、実際には10人とも学力には差がなかったのです。つまり二人の先生は、そういうものだと勝手に思いこんだために、暗示にかかり生徒たちにかける言葉が違ってきてしまったのでしょう。そして、実際に生徒は変わってしまったのです。
こんな話もありますよ。カメラマンがモデルの撮影を行うときに、シャッターを押しながらやたらと褒めまくるそうです。「いいね、いいね、その笑顔が最高だね」という具合です。褒められたモデルさんは撮影している短時間の間にみるみるきれいになっていくそうです。これも暗示の効果なのです。本当にそんなことが起きるのかと疑問に思う人がいたら、毎朝鏡に映る自分に向かって「君は世界で一番かわいい(かっこいい)んだ」と20回ずつ言い続けてみて下さい。そして本当にそうなのだと思いこむようにしてみて下さい。あなたの表情は本当に美形に変わっていくことでしょう。
つまり、人間は気持ちの持ちようでどうにでもなってしまう動物だということです。そういう意味では、精神的に非常に敏感で繊細なのです。例えば、末期ガンで余命幾ばくもないと医者から宣言された患者さんが、びっくりするくらい長生きすることがありますね。これは、その患者さんが「自分はそう簡単に死ぬわけにはいかないのだ」と自分に強く言い聞かせているために起こる現象だと思います。そんな馬鹿なと思う人もいるかも知れませんが、人間の体には本来「自然治癒能力」が備わっていて、薬など使わなくても病気は治るようにできているのです。ただ、その治癒能力が効力を発揮するかどうかはその人がどのくらい本気でその病気を治そうと決意しているかによるわけです。
「プラセボ」という薬を知っていますか?それはただの砂糖の粒です。日本語では「擬似薬」と呼ばれています。つまり偽物の薬です。本当は大して具合も悪くないのに精神的に弱気になっているような患者さんには、医師はときどきプラセボを処方します。そして患者さんに言うのです。「この薬はとてもよく効く新しい薬だから、必ず毎日忘れずに飲むようにね」とね。そうすると、患者さんはただの砂糖の粒を飲んでいるのに病気が良くなってしまうのです。これも暗示の効果です。
私は長年女子ソフトボール部の監督をしていましたが、「そんな弱気じゃヒットなんか打てるわけないだろうが!」と思わず怒鳴りつけてしまうときと、「今の空振りはなかなかいいぞ。次はボールをよく見て同じように思いっきりバットを振ってみろ。ホームランは間違いないぞ!」などとおだてるときとで、実際の結果が大きく違ってきてしまうのは事実なのです。特に、野球には慣れ親しんでいない女の子の場合は、監督の言葉が与える暗示効果は絶大です。大袈裟に褒めてあげれば、自分の力の150%くらいを発揮してしまうのです。「自分には絶対にできるんだ」というプラスの暗示の持つ不思議なエネルギーは、実際に存在するわけですね。
注意しなければいけないのは、プラスの暗示が存在するのと同様に、マイナスの暗示も存在するということです。「自分はダメだ」と思いこんでしまうと、本当に何をやってもいい結果が出ずに、余計自分はダメだと思いこむという悪循環に陥ってしまいます。どうせ一度きりの人生です。プラスの暗示を最大限に利用して、幸せな人生を送ろうではありませんか。
人生の幸せは何ですか、と問われたら、恐らく答えは千差万別でしょう。お金がたくさんあればそれで幸せだと感じる人もいるでしょうし、友達がたくさいんいることが幸せだと言う人もいるかも知れません。また中には自分が守るべき存在があることが幸せだと言う人もいるでしょう。
でも、恐らくどの人にも共通して言えることは、「自分がこの世の中に必要な存在なのだ」と感じることができる瞬間が一番幸せで充実したときなのではないでしょうか。「窓際族」というあまり響きの良くない言葉が流行っていますね。会社の中で一番リストラに近い人たちのことです。会社にはいてもいなくても、大して影響はないということなのでしょう。
私は、教員生活の最後の1年3ヶ月を過ごした茅ヶ崎市立西浜中学校で、びっくりするほどたくさんの仕事を与えられました。小規模校なので、少ない職員で仕事を分担し合えば、一人あたりの仕事量は他の学校の何倍もの量になってしまうのは仕方のないことです。愚痴をこぼしたくなることもよくありましたが、考えてみれば仕事が与えられると言うことは、それだけ学校から必要とされているということでもあるわけです。ですから、プラスに考えれば、これほど幸せなことはないわけです。
逆に仕事がもらえない状況を想像してみてください。会社に出勤してもコーヒーを飲んで暇つぶしをするか、コンピューターでゲームをするしかない生活は、果たして天国でしょうか。「そんな楽な生活なら望むところだ」と思う人もいるかも知れませんが、実際に仕事がないというのはそんな生やさしい状況ではないのです。「居場所がない」という感覚でしょう。まあ、あなたがよほどの怠け者で、どんなぐうたらな生活をしていてもちっとも気にならないというのなら別ですが、人生は誰からも必要とされなくなったとき、生きていく目的そのものが見えなくなってしまうものではないでしょうか。それだからこそ、年老いて誰からも話しかけられることがない老人たちは、どんどん生きる意欲をなくしていくのです。もし、ご老人たちを招いて、子供たちに昔の遊びや、戦争の話をしてもらう機会を多く作ったとしたら、ご老人たちの人生は再び活気を取り戻すに違いありません。
実際、私の父は、脳梗塞で寝たきりの生活になったとき、日に日に生気を失っていきました。だんだん訳のわからない言動をとるようになり、ある時などは、夜中に突然起き出して夕食を食べているのです。もちろんとっくに済ませたはずの夕食をです。私はその情景のあまりの悲しさに父に何と言葉をかけていいのやらわかりませんでした。
ところが、老人福祉介護施設に入所するようになってからの父は、すっかり意識も元通りになって、白髪が目立っていた頭髪も見事に黒々と蘇ってしまったのです。恐らくは、施設の老人仲間との交流や介護士の若い方たちとの会話が、父にもう一度存在感を与えてくれたのに違いありませんでした。
世の中は、どこにどんな運命的な出会いが待っているかわかりません。素晴らしい人との出会いが、自分の存在感を強調してくれる仕事を与えてくれる可能性もあります。今までは学校の成績の数字ばかりを気にして喜んだり落ち込んだりしていたと思いますが、世の中に出たらそんな数字はちっとも役には立たないのです。できるだけ多くの出会いに恵まれ、自分の存在感を少しでも大きくすることができた人が一番の幸せ者ということになるでしょう。
どうですか?今までは自分に自信がなかったあなたも、「それなら自分にもできるかも知れない!」という勇気が湧いてきたのではありませんか。人生とはそういうものです。
今日は、私の住む茅ヶ崎市の公立中学校では一斉に「卒業証書授与式」がとりおこなわれました。今頃は、「打ち上げ」と称して、卒業生同士でファミレスに集まったり、カラオケボックスで大騒ぎしていることでしょう。この晴れの日に、私は卒業生諸君にぜひ言いたいのです。これからは存在感のある人間になれるよう一生懸命努力してもらいたいと。
私は中学時代、4つの部活に所属しました。まず、1年生の体験入部で「美術部」に入り、大好きだった女性の先輩と1ヶ月間同じ活動をして満足をした後、本入部では「体操部」に。そして膝を壊してしまったこともあって、2年生からは「卓球部」に。そして、3年生では「陸上部」に所属したのです。私の場合、とにかくあちこちに興味が散って、一つのことに集中するということができませんでした。だから、スポーツ万能で運動神経は人一倍良かったのに、何一つものにならないまま中学時代を終えてしまいます。高校に入ってからは「剣道部」に入りましたが、学校の成績も振るわなかった私は、厳しい練習についていくことができずに、夏休み中に退部。そして「気象部」に入って、毎日ゴムベースボールをして遊んでいたという情けない有様です。大学時代も、最初は「卓球部」に入ったのですが、私が落ちた東京外国語大学と合同合宿をするなどと言い出すものですから、プライドが高かった私はとてもそんなアイデアにはついていけず、すぐに辞めて「ESS(English
Speaking Society)」に入ったのです。でも、そこでも先輩たちとうまくいかずに、結局は1年で辞めてしまいました。
晴れて教員になった私は、3年間一つの部活動に所属して頑張っている生徒たちを見ると、大変な劣等感を感じたものです。なぜなら、自分には一度もできたためしがない「継続」という行為を見事にやってのけているからです。学級通信を書いても無事に1年間続いたことはないし、どうして自分はこうも中途半端なのかと真剣に悩んだ時期もありました。ですから、教員になってから最初の6年間は「継続は力なり」という言葉を、卒業アルバムの記念サインに添えることもありませんでした。自分にできないことを文字にするわけにはいかなかったからです。
私が、この言葉を少し使えるようになったのは、初めて学級通信が1年間続いたときでした。「自分にも継続ができるんだ」という喜びと自信は想像以上に大きかったと思います。そしてそれからは、一変して非常にねばり強い性格になりました。何を始めても必ず最後までやり通すことができるようになったのです。
今の私は、他の人間が簡単にあきらめてしまうようなことでも、とにかく成果が出るまではねばり強く続けることができます。それが自分の「売り」にもなりました。しかし、こういう私の長所は私が子供時代から持っていたものではないということが、これを読んでくれている若いあなた達には大きな安心感であり、自信にもなるのではないでしょうか。
このホームページを見ていただければわかると思いますが、私の日記のページは必ず毎日更新されていますね。このホームページ自体、見えない部分が毎日必ず更新されています。多くの人に見ていただけるように、写真のサイズを微妙に調整してアクセスしやすいようにしたり、誤字脱字の訂正をこまめにしたり、アフィリエイト広告は次々に増やしてもいます。こういう地道な作業が毎日続けられるというのはものすごく大切なことで、これが私の大きな力にもなっているのです。「継続は力なり」という格言はまさに真実で、継続することで新たなパワーが生み出され、次のもっと大きな仕事を継続することで、またまたさらに大きなパワーを得ることができるのです。
この世の中では、生まれ持った才能など開花させない限りは何の役にも立ちません。そして才能を開花させるためにはねばり強い継続が必要なのです。ちょっとやってダメだったからと言って、自分には才能がないと簡単に決めつけてはいけません。才能の開花には時間がかかるからです。そして、一つのことをやり遂げたとき自分が大きく成長したことに気づくでしょう。その自信と喜びが更に大きな自分への成長へとつながるわけです。
「自分には何の取り柄もない」と自信をなくしているあなた。「継続」はどんな人にもできる能力です。ただし、それを身に付けるには努力が必要ですが。どんなことでもいいのです。あきらめずにねばり強く続けることが、やがてはあなたの大きな才能を開花させてくれることでしょう。
私は、中学校の教員をしていたころ、ずいぶん悔しい思いをさせられました。茅ヶ崎市の教育委員会も神奈川県の教育委員会も、どれだけ恨んだことか。それに、私のことを勝手に暴力教師と決めつけて報道した新聞各紙や神奈川テレビも恨みました。それでも不思議と私のことを訴えた保護者を恨むことはありませんでしたけれどね。なぜなら、自分が親の立場だったらもしかしたら子供かわいさに同じことをしていたかも知れないからです。私は基本的に生徒たちを恨んだことはありません。
一時は刑事裁判に持ち込むことも考えましたが、だんだん疲れてきて、それが幸いして落ち着いて考えてみれば、結局は元の種を蒔いたのは自分なのだし、誰か他人を恨んでみてもプラスの結果につながるとはとても思えないし、誰かを恨んでそのことに執着している暇があるほど、人生は長くはないことに気づいたのです。
世の中には納得のいかないことが山ほどあります。でもそれと同じくらい感動的なこともある。どちらに目を向けて人生を歩むかはその人の判断です。同じ人生なら、前向きに歩いた方がいいではありませんか。英語ではそういう生き方を"to look on the bright side of things"と言います。逆の生き方は"to look on the dark side of things"になりますね。コインにも裏表があるように、人生にも裏表があります。どうせ生きるのなら明るい表側を見て楽しく生きましょう。
暴力が暴力しか生まないように、恨みは恨みしか生みません。一時的には自分の気がすっきりしたとしても、それで誰かの恨みを買ってしまえば、いつかはまた自分が標的にされるだけ。そんな下らない人生は生きたくありませんよね。
「類は友を呼ぶ」という諺を知っていますか?同じような考え方をしている人たちは自然と出会うようにできているのです。ですから、自分が人を信じ正義感を持って感情豊かな人生を歩んでいれば、同じようにきれいな心を持っている人たちと必ず出会うことができます。「世の中も捨てたもんじゃないなあ」「世の中にはこんな人たちもいたんだ」そんな風に思えるようになると、自然と数々のマイナス感情は忘れて、前向きに歩いていこうという勇気が湧いてきます。
この世の中には、本当に悪い連中もいますが、きれいな心を持ちながら一生懸命生きている人たちも大勢いるのです。テレビのニュースからは悪い人間の話題しか流れてきませんが、それは逆に言えば氷山の一角でしかないかも知れません。素晴らしい人々や、素晴らしい物事との出会いを大切にして、自分の人生を少しでも豊かなものにしようではありませんか。
私は決して宗教家などではありません。どの宗教にも属さないし、集団で同じものを崇拝するというのは大嫌いです。自分は自分でいいというのが私の信念です。だから自分の考え方を誰かに押しつけたいとも思いません。自分の考えを主張することは大切だと思いますが、決して物事を決めてかかってはいけないでしょうし(知らず知らずのうちにそうしていることもあるでしょうが)、あくまでも判断するのはあなた自身です。
ただ、気をつけなければいけないのは、同じような人々とグループを作って活動し始めたら、それはいつか排他的になりがちだということです。特定の宗教団体に属したりすれば、自分の行動も当然制約を受けますし、一つの考え方だけが優れていると思いこんでしまう危険性もあります。世の中で何が真実なのかは、ソクラテスなど古代ギリシャの有名な哲学者たちが一生をかけて考え抜いても結局は結論が出なかったほど、見極めることは困難です。ですから、自分の心が縛られてしまうような状況だけは作らないようにしたほうが賢明でしょう。誰かに頼るのではなく、あくまでも自分は自分の足でしっかりと立つのだという力強さだけは失わないようにしましょう。
人間、自信を持って物事に臨むかどうかで、結果は大きく違ってきます。でも自信を持つことはそんなに簡単ではありませんよね。自分が納得のいく努力をしてこそ初めて自信はつくものですし、また実際に成功した経験が更に自信を強めてくれるからです。
「自分には能力がないから…」と本当に自信なさそうに言う子がいますが、人間の脳は巨大なコンピューターをはるかにしのぐ性能なのですよ。しかも、普通の人間はその機能の3%程度しか使わずに死を迎えると言われています。ノーベル賞をもらうような天才でも、せいぜい12%使用すればいい方だそうです。つまり、どんな人も自分の中に埋もれている能力を開発しないまま終わっている場合が多いということになります。
では、どうしたらその可能性を開発することができるのでしょうか。それには特効薬のようなものはないでしょう。私の考えでは、どんなに苦手な物事にも、果敢に挑戦する精神を忘れなければ、人間の能力はどんどん開発されていくのではないかと思います。私自身、自分はビデオの録画予約もできないような機械音痴だとずっと思いこんでおりました。ところが、学校の仕事で視聴覚担当というとんでもない場違いな役を与えられた瞬間に、開き直ってあれこれ挑戦してみたのです。すると視聴覚機器の配線など別にどうということはないではありませんか。苦手だったコンピューターもデータ処理の仕事を請け負っているうちに、インストラクター並みの実力になってしまいました。今でも、とにかく他人に聞く前に、自分で説明書を読みながら操作の研究をするようにしていますから、身に付くのも確実なのです。ホームページを作る作業も、実を言うと1年くらい凍結していました。どうしてもうまく行かないのです。ところが、ちょっとしたことに気づいたのをきっかけに、あっという間に自由自在に作ることができるようになってしまいました。
私は、小学校時代は作文が大嫌いでした。でも、大学生の時に、ノートに何ページも日記を書く習慣を身につけて以来、ものを書くことがどんどん好きになって、教師になってからも学級通信をどんど出しておりました。そして、気がつけば夢だった出版が実現していたわけです。ほらね、人間にはどんな能力が秘められているかわからないものでしょう?
私は、英語のリスニングが苦手です。でも、必ずこつこつ努力していれば成果は出るだろうと、趣味と実益を兼ねて、ケーブルテレビでアメリカのドラマを副音声で一生懸命見続けて来ました。そして、何と私のリスニングの力だけでなくスピーキングの力も飛躍的に伸びてしまったのです。そうなると英文を書くことも自由になってきます。でも、私は同時通訳のプロたちと同じくらいハイレベルな英語力をつけるまでは絶対にあきらめません。
私は車の運転をしますが、自動車学校に通っているときは、教官から叱られてばかりいました。路上で垣根に突っ込んで「俺を殺す気か!」と怒鳴られたこともありました。でも、今ではどんな細い道もするする走っています。運転は極めて上手な方です。恐らく私は何を身に付けるにも時間がかかる方なのでしょう。しかし、できるようになれば同じです。
今の私は、まだいろいろなことに挑戦していますが、世の中はあきらめさえしなければたいていのことは可能だと信じています。喩え失敗しても、私は前進し続けるでしょう。みなさんは私よりはるかに若いのだから、私のようなおじさんに負けていてはいけませんよ!
神奈川県の公立高校は昨日の3月1日が後期選抜試験の合格発表だったようですね。昨夜は臨海セレクト本厚木校で教えていた生徒から合格の報告がありました。でも、彼女の大の親友は残念ながら同じ高校を落ちてしまったそうです。
私にとっての最初の受験は中学受験でした。6年生の冬から突然日本能率進学教室に通い始め、ちっともわからない授業を必死で受けて、当然のことながら受験した2校(栄光学園中学・横浜国大附属鎌倉中学)は両方とも撃沈。高校受験は危ないから一つランクを落としなさいという担任のアドバイスを無視して、「落ちたら就職します」と宣言して県立湘南高校に合格。当時は日本全国に名のとどろいていた有名進学校でしたが、私は最初の成績が403人中399番。合格の喜びはどこかへすっ飛んでしまいましたね。大変な高校時代でした。
大学は個人面談で「東京大学の文学部歴史学科に行きたいです」と言いましたら、担任の先生に「冗談はやめなさい」と言われてちょっとショック。受けたのは東京外国語大学フランス語学科で、残念ながら浪人をするはめになりました。東京は神田の駿台予備校に通って、2年目に受けたのは、東京外国語大学英米文学科と上智大学外国語学部英語学科と獨協大学外国語学部英語学科の3つ。予備校の判定では上智大学には80%合格確実とのことだったし、試験のできも良かったので安心しておりましたら、外大も上智もダメ。結局は行く予定のなかった獨協大学へ行くことになってしまいました。こんなことなら早稲田か慶応か横浜国大あたりで妥協しておけば良かったと、当時プライドのかたまりだった私はずいぶん後悔したものです。実際、そのあたりの名門大学になら余裕で合格できる力はあったのです。
私のような世間知らずのプライドのかたまりは、名前のある大学に行かなくて正解だったと思います。なぜなら、もしそのままエリートコースを突っ走っていたら、きっとものすごく嫌なやつになっていたのではないかと思うからです。実際、獨協大学で出会った先輩や外国人の先生方は、私の人生やものの考え方を根底から変えてくれました。私に本当の英語力をつけてくれたのは、この獨協大学だったのだと思っています。だから、私はネームバリューのある湘南高校よりも、ネームバリューとは縁のない獨協大学の方を、胸を張って堂々と名乗ることを好みます。
中学受験も高校受験も大学受験も、精一杯の努力をしたなら、結果は前向きに受け入れるのが一番でしょう。なぜなら、きっと合格した学校にはそれなりの縁があるからです。そして、自分が前向きな気持ちさえ失わなければ、きっと新しい人生を切り開いていくことができるからです。
中国の有名な故事に「人間万事塞翁が馬」という格言のもとになった話があります。塞じいさんの飼っていた大切な馬が逃げてしまい悲しんでいた塞じいさんのもとに、逃げた馬がたくさんの野生の馬を引き連れて戻ってきます。塞じいさんは大喜び。ところが息子が馬に乗って遊んでいるうちに落馬して足を骨折してしまいます。塞じいさんはこんなことなら馬が戻ってこなければ良かったのにとまた悲しみのどん底に落ち込みますが、やがて戦争が勃発して塞じいさんの息子は怪我をしていたために徴兵されずに済みました。まあだいたいはこんなあらすじなのですが、要するに人生は何が幸いするかわかったものではないということなのですね。そして、それは真実です。
大切なのは、何が起きても常に「プラス思考」と「前向きな姿勢」を忘れずにいれば、必ずいいことがあるということです。目の前の出来事にいちいち喜怒哀楽していても、それがいつ逆の結果につながるか知れたものではありません。
ですから、合格した人は気持ちを引き締めて新しい生活に挑むこと、そして合格しなかった人はその悔しさを忘れずに前向きに次の目標に向けて新しい一歩を踏み出すこと、そういう風にすれば誰もが幸せになれるでしょう。46歳のおじさんの言うことです。信じても大丈夫ですよ。
今は少し勢いが落ちてきたようですが、一時期は女子高生のルーズソックスが大流行しましたね。あるアメリカ人の英語講師に感想を聞きましたら「どうしてあんなみっともない汚らしい格好をするのか理解できないよ。アメリカではレッグウォーマーをはくのは年配の女性だしね」と言っておりました。つまり「ルーズソックス」に対する英語はないのです。そこで彼は冗談半分に"Elephant Feet"(象の足)という単語を作ってくれました。
日本人は何でも周囲の人間の真似をしたがる国民です。それは小さな国土に多くの人間が肩を寄せ合うようにして暮らしている環境が育ててしまった国民性でしょう。だから、自分たちとは違った人間を排除しようとする性格も強いわけです。そういう「排他的」な性格が「いじめ」を起こすのでしょう。ところが、アメリカのように、日本の25倍もの広さの国土に日本のたった2倍の人々が住んでいる余裕のある国では、他人と違うことが自慢になります。日本人も、そういうところはアメリカ人を見習った方がいいのではないでしょうか。
ルーズソックスの後を継いだのがラルフローレンの紺ハイソックス(紺ハイソ)ですが、これはルーズソックスほどは流行しませんでしたね。今はミニスカートが大流行。男性の感覚からすれば、駅の階段を上るのにミニスカートの後ろを手で押さえながら上がるくらいなら、なぜミニをはくのかとアホらしくなってしまいます。要するに足が見せたいくせに、足を見られると「セクハラ」だと言って騒ぐわけですね。あんな裸に近い格好をしていて電車の中の痴漢を一方的に非難することができると思いますか。
こんな時代に、ロングのスカートやスラックスにこだわる女性は心強いですね。敢えて流行の逆を行こうとするくらいの気概があってもいいではありませんか。これも、前述した「時代の先を読む」ということに関係してくると思うのですが、今の中学校は日本人の先生と外国人の先生が二人でチームを組んで教える「ティーム・ティーチング(TT)」が主流です。私はどうしてそんな時代遅れなことにいつまでも夢中になっているのかと不思議でなりませんでした。不景気な時代に二人の教員を一つの英語の授業で使うことがいつまで続くと思いますか?私が文科省大臣だったら、英語を完全に使える日本人教師を養成して、全て英語で授業をさせます。どうしても理解しにくいところだけ、日本語で説明を付け加えてあげればいいのです。ですから、日本にいる外国人たちは日本人の英語の先生の英語力を鍛えるために利用すべきですし、また一週間に英語の授業を4回にして、そのうちの1回だけを外国人講師の英会話の授業にすればいいのです。世界で、日本の英語教育くらい馬鹿にされているものはないのですよ。「日本人は大学まで10年間も英語を勉強して、どうしてまともな会話ができないんだ?」外国に行けば彼らは素朴にそう質問してきます。
周囲のみんながやっているからそれでいいんだという考え方は、昔流行った「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という発想と全く同じだとは思いませんか。
私自身は、周囲の友達が絶対に真似できないような英語の勉強法を長年続けてきました。あまのじゃくでしたから、他人と同じことをやるのが大嫌いだったのです。それも程度問題ですが、そのくらいの反骨精神があってもいいのではないでしょうか。みんな「自分」を持ちましょう。
ちょうど中学校や高校入試の結果がわかった頃ですね。大学入試もそうですが、希望の学校に合格すればもう天下を取ったような気になりますし、逆に合格できなかった人は、もう自分の人生がそこで終わってしまったように感じるかも知れません。しかし、実際には今の世の中は「どこの学校を出たか」ということよりも「何がどのくらいできるか」ということが問われる時代です。
どこの学校に入ろうとも、その学校の先生たちが自動的にあなたたちの頭に知識をインプットしてくれるわけではありません。つまり自分で勉強しなければならないという意味では、どこの学校にいても同じなのです。違うのは学校の雰囲気です。周囲の人間がみんな前向きに頑張っていれば自分もそういう気持ちになりやすいでしょうし、その逆も言えます。しかし、本当に自分の意志が強ければ周囲の人間が何をしていようと関係ありません。本屋さんに行けば、ありとあらゆる教材が揃っていますから、下手な授業を受けるよりいい教材を使って自分で勉強する方がよほど効果的かも知れないのです。日本は非常に本に恵まれた国です。そのメリットを活用しなければ。
私は全国でも有数の進学高校を卒業しましたが、私の今を作ってくれたのはむしろ無名だった大学の方でした。無名の大学だからこそ、実力をつけなければ世の中に出て勝負ができないという緊張感が常にあったように思います。だからこそ、留学もしないでネイティブとほとんどかわらない英語力が身に付いたのでしょう。私の英語の知識や会話力・文章力は並みのものではありません。でも、残念ながら同時通訳の人たちよりはずっと劣ります。こうして、自分が持っている力を客観的に知ることができるようになれば、世の中は必ずチャンスをくれるものです。
若いうちですから、大いに青春を楽しみましょう。そして、大いに勉強しましょう。あなたが入学した(卒業した)学校の名前など、社会に出たら何の役にも立ちませんよ。他人よりも優れた才能を一つでも多く身につけることが今の時代は大切なのです。
希望の学校に落ちてしまって落ち込んでいる人たちは、その悔しさ・情けなさをバネにしてこれからの自分を大きく育てる大計画を立てましょう。「意志のあるところには必ず道は開ける」のです。
人生で大事なものは何かと聞かれたら、あなたは何と答えますか?「お金」「愛情」「頭の良さ」「度胸」…いろいろありますね。私は、46年間の人生から、「時代の先を見通す力」が一番大切だという結論を導き出しました。
それではこれからの時代には何が必要になってくると思いますか。「英語を自由に操る力」もそうでしょうね。でも、英語以外にももしかしたら中国語や韓国語の方が大切になってくる可能性もありますね。なぜなら、これからアメリカよりも日本との付き合いが深くなる可能性のある国だからです。そう言う意味ではロシアやオーストラリアも注目です。東南アジアの国もそうかも知れませんね。
次に、今後公務員になることは得でしょうか。それは何とも言えないですね。公務員批判がどんどん強くなっていくことは誰もが容易に予測できますから、これからの公務員は今までより待遇が悪くなるでしょう。それではどんな職業が可能性を秘めているのでしょう。今の日本の置かれている状況をよく考えると、まずはコンピューターを使わない仕事が大成長することはまず考えにくいですね。すると、コンピューターを操作する技能はある程度身につけておく必要があるということになります。インターネットやメールができる程度ではダメです。ワープロソフトや表計算ソフトが使えなくてはいけません。コンピューターのワープロソフト&表計算ソフトには、アメリカ系(マイクロソフト社製)と日本系(ジャストシステム社)がありますが、どちらがいいでしょう。学校関係はジャストシステム社、一般企業はマイクロソフト社、それにコンピューターのシステムも一般的にはウィンドウズ(Windows)ですが、印刷業界などはもっぱらマック(Mac)です。さあどうしましょうか。それを予測して結論を出すのはあなた自身です。
今の企業の人たちはTOEIC(Test of English for International Communication)を受けるのに必死です。その点数が出世に響くからです。世の中には英検(STEP)以外にも英語の実力を証明するテストがいくつかあるのです。そういう情報も必要ですね。
これからの時代は確実に「少子高齢化」です。すると一番必要になる職業は「福祉介護士」かも知れません。看護婦さんや看護士さんの数も足りないようです。日本もアメリカのように訴訟社会になってきていますから、弁護士の数も増える必要があるでしょう。また、子供が少なくなるということは、学校の先生になるのは難しいでしょうね。
自分で新しい商売を始めるのはどうでしょう。インターネットを使えば、特に事務所を設けなくても会社が設立できそうです。しかし、問題なのはどうやって宣伝するかということです。読者の多いメールマガジンにたった5行の宣伝文句を1回だけ掲載してもらっても10万円かかるとしたら、どうしますか?ほらね、世の中はそんなに簡単にお金を儲けることはできないのです。
でも、若いあなたたちにはまだまだ失敗ができるではありませんか。自分でこれだと思ったことには積極的に挑戦してみましょう。失敗したらまたやり直せばいい。50歳近くになってから、私のように新しい仕事を始めるのは容易なことではありません。私にはたまたま英語を自由に操れる力があったから何とかなっただけのことです。それでも勇気が要りますよ。

「いじめ」は今始まったことではなく、私たち中年世代が子供の頃も確かに存在しました。ただ私たちが子供の頃は、友達と遊んだり喧嘩をしたりするチャンスも多かったので、比較的堂々と立ち向かえた場合が多かったのです。でも、今の時代は部屋にこもってコンピューターゲームに没頭したり、メール交換に夢中になったり、やたらと一人でいることが多くなりましたね。それは人と上手に付き合う方法を学ぶチャンスが少なくなったということなのです。それで昔の子供たち以上に「いじめ」の打撃を受けやすくなってしまったのでしょう。
基本的に日本は小さな国ですから、誰か目立ったことをする人間を歓迎しない雰囲気がありました。今話題になっているライブドアの堀江社長も個性が強すぎて、世間からはあまりいいイメージを持たれませんね。しかし、彼は誰も挑戦しなかった分野に果敢に挑戦して大成功を収めたのですから、本来ならば敬意を払われてもいい存在です。もちろん、彼の傲慢な態度(例えば正式な服装で臨まなければならないような記者会見にTシャツで現れてしまうような子供っぽい非常識さ)にも多くの問題はあるとは思います。つまらないところで自己主張は必要ないからです。
ただ、日本のいじめの構造は堀江さんの場合と同じです。周りの人間とはちょっと違った個性を持っていると、その個性をからかいたくなる。お互いの個性を尊重できる社会にならなければ、本当の意味での「先進国」とは言えないでしょうね。
いじめを受けた経験のある人は、人前で自分の個性を堂々と主張するのが怖くなってしまいます。しかし、今の日本の社会はだんだんと自己主張のできない人間が排除されるアメリカ的な社会になりつつあります。ですから、他人にはないような個性や技術や知識をたくさん身につけて、堂々と社会に巣立っていって欲しいのです。
不登校で学校に行けなかった人もいるでしょう。「学校に行くのが当たり前」などという考え方は別に誰が決めたことでもありません。実際、イギリスなどでは家庭教師をつけて学校教育に替えることも許されます。私の姪っ子は中学時代の3年間ほとんど不登校でしたが、現在は希望の高校に合格して楽しい学校生活を元気いっぱいで過ごしています。人生にはスタートするのに遅すぎるということは全くありません。自信を持ちましょう。
最近のIT機器の発展ぶりには目を見張るものがあります。つい先日発売された、アップルコンピューター社のiPad、そしてソフトバンクから発売されたiPhone4。どちらにしても、未来の世界からやってきたような素晴らしい機能が搭載されています。これからは、そういう機器を手にした若者たち、いや若者に限らず中年たちが、公共交通機関の中にあふれるようになるのでしょうか。
私は考え方が古いのかも知れませんが、若者や中年のサラリーマンが、電車に乗って来るなり携帯電話と睨めっこを初め、ずっとその状態で動かないことに大変な違和感を感じるのです。通勤の時間を潰す道具は、一昔前なら新聞か雑誌・本(漫画本も含めて)と決まっていました。ところが、最近ではインターネットでゲームを楽しんでいる人が多い。一時期盛んだった、iPodは次第に廃れてきたように感じます。音楽を聴くだけでは我慢ができなくなってきたのでしょうか。
でも、考えてみて下さい。電車の中で携帯電話の画面に、あるいはこれからiPhoneやiPadの画面に夢中になっているとしたら、それは他人とのコミュニケーションを拒否する行為に他なりませんし、また年配の方が乗車してきても気がつかずに、席を譲るチャンスを失ってしまうではありませんか。大変便利なものではあっても、やはりどこかに人間社会の大切なものを阻害する部分を持っているのです。
私も仕事上コンピューターをよく使いますし、このHPもコンピューターあってのものです。しかし、大切なのは、生活の全てがコンピューターに支配されてしまうかどうかということなのだと思います。仕事には必要なのだからそこではコンピューターを最大限に利用すればいい。でも、例えばきれいな景色の絵を描こうとしたら、それはコンピューターの描画ソフトを使う必要はないですよね。絵筆と絵の具とキャンバスがあればいい。そうです、アナログの良さです。
iPadにしてもiPhoneにしても、それがなければ果たして生活していくことはできないのでしょうか。何もかもそれらのIT機器に頼るようになれば、結局はそれがなければ生活できない「依存症」になってしまうだろうし、実際にアメリカではiPad依存症が社会問題となりつつあるようです。ちょうど日本人の若者が携帯電話依存症になったのと同じです。
IT機器は確かに便利です。触ってみたいという誘惑に大いに駆られます。そして、使うことも決して悪いことではありません。でも、頼りすぎは絶対にダメ。それがなければ生活が成り立たなくなってしまうからです。何かを調べたかったら、書物を使うことも大切ではありませんか?私は、英語の教師をしていますが、ちょこっと単語の意味を調べようとして電子辞書を使います。ところが、電子辞書には十分な文例が載っていないので正確な意味が分からないのです。そういうときには、紙の辞書が一番。見やすいし、調べやすいし、紙の匂いが昔懐かしの学生時代を思い出させてくれます。
若い皆さんだけでなく、私たち中年も、IT機器に振り回されることのないよう、しっかりと自分自分の方針を持たなければなりませんね。機械は利用するもので、利用されるものではありません。

皆さんの中には、「自分の学校にも金八先生みたいな人がいればいいのになあ」と、自分の学校の生成を恨む人もいるかも知れません。気持ちはとてもよくわかります。私自身が、もと学校の同僚で本当にぶん殴ってやろうかと思ったやつが何人かいましたからね。
でもね、人間はそんな後ろ向きな人生を歩いていても得なことはないのですね。人生は他人を恨んで仕返しをしてやろうと考えていられるほど長くはないのです。大切な人生なら、もっともっと前向きな生き方をしたいではありませんか。私は作家なので、過去の出来事でこれだけは世の中に知らせたいと思うようなことは、どんなことがあっても本にはしますが、それ以上に何か復讐をしようとか、そういう考え方は少しも持っていません。
大切な考え方は、人間というのはいつもいつもエネルギー満タンの状態ではいられないということなのです。ときにはエネルギーがなくなってしまって、本当はもっといろいろなことがしたいのに力が湧いてこなくて悩んでいる人もいるでしょう。私自身にも若い未熟な頃にそういう経験が何度もありました。元気な人間から見れば、そういう疲れ切ってしまった人間はどうしようもないやつに見えるかも知れませんが、そうではないのです。悩む人というのは、悩んでいる時期が必ず次の成長へのステップになるからです。
一番問題なのは、エネルギーがたっぷりあるくせに一生懸命にならない人間です。実際、学校の職員室にも元気なくせに、元気をなくしている生徒たちのことを真剣に考えない先生たちが何人かいました。そういう先生たちに限って、どこかよその学校の怖そうなツッパリ君たちが正門に出現したりすると、びびってしまうのです。勇気のある先生なら、弱い立場の生徒たちにも絶対に優しいはずだからです。
それでも、そういう先生たちを非難したり恨んだりしても仕方ありません。大人は簡単に自分を変えることができないからです。そういう先生たちは、いつか必ず自分自身が苦しい経験をすることになるでしょう。そして、そのときに周囲の誰も助けてはくれないのです。他人にした無情な行為は、いつかは必ず自分に返ってくるのですから、いやなやつは放っておけばいい。神様が必ず罰を与えてくれます。
もし、貴方自身にそういういやな人間がいたら、自分はそういう人間には絶対にならないようにしようと考えればいいのではないでしょうか。自分にそういう思いを抱かせてくれる相手のことを「反面教師(はんめんきょうし)」と呼んでいます。いやなやつは反面教師にすればいいのです。そして、自分自身が弱い状態を経験したことがある人は、同じように弱い状態に苦しんでいる人たちに優しい思いやりをあげて下さい。「情けは人のためならず」という諺があります。他人にあげる情けはいつかは巡り巡って自分のところに戻ってくるという意味なのです。他人に優しい接し方をしていれば、いつか自分が困った状態に陥ったときに、誰かが自分を助けてくれるでしょう。それが「情けは人のためならず」です。覚えておいてね。